コラム「小鹿野歌舞伎手習い始め」其の八『町じゅうが役者?!』
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東西さんによる小鹿野歌舞伎手習い始め其の八
「町じゅうが役者!?」
小鹿野町のキャッチフレーズは「花と歌舞伎と名水の町」だそうです。
町の花・木・鳥がそうであるように規則で強制するものではなく、私たちの町はこういう町ですよ~!という外部に対してのイメージアップと
町に住む人々のアイデンティティー(同一であること、古いなぁ?)を示すものです。
筆者の記憶では、「ふるさと創生事業(昭和63年から平成元年に竹下内閣が行った地域振興政策)」を踏まえ、
小鹿野町でも自分たちの足元を見つめなおす気運が高まりました。
平成7年に当時の「CI委員会」(これも時代を感じますね)で、小鹿野はこれだ!という話し合いをした時に
「歌舞伎のまち・おがの」と言い出したと思います。
平成17年に旧小鹿野町と旧両神村が合併して、セツブンソウ、福寿草、花菖蒲など花の名所作りで有名な村を前面に出し
「花」が加わりました。
さらに倉尾の「毘沙門水」が「名水百選」に選定され「名水」も加わってきました。
「オートバイ」が加わるのはいつになるでしょうか?
さて、「町じゅうが役者」というコピーもあります。これについても駄弁を弄しておきましょう。
昭和63年の秋と記憶していますが、筆者はダムに沈む合角(かっかく)地域の民俗調査に取り組んでいました。
この調査を指導された故小林茂先生(当時、県文化財保護審議会委員)と一緒に、明治生まれの古老から歌舞伎の話を聞いた時のことです。
合角地域では4月のお天狗様の祭りに河原に仮設舞台を組み立て、地元の人々が歌舞伎を上演していました。
坂東大五郎の出身地でもあり、4か月も前から大五郎を師匠に毎晩、蚕室に集まっては稽古を行ったといいます。
演目や配役によっては、かなりの人手を要したはずなので、その間の生活や仕事は心配なかったのでしょうかと聞くと、
「なぁに、村じゅうが役者だったから、せわぁ(世話)なかったいね。」のひと言がかえってきました。
小林先生は、
「山地の暮らしで物質的に恵まれていないという面があったとしても、人々はこのような習俗の中に心のやすらぎを得てきた。」
(『秩父・合角ダム水没地域総合調査概報』より)
とコメントを残されましたが、同時に
「小鹿野は町じゅうが役者だね。」
と感想をもらされました。
これを、筆者は当時始まったばかりの、『歌舞伎のまちづくり事業』にちゃっかり盗用?し始めました。
数年後、ようやく小鹿野が歌舞伎の町であるというイメージが広がった頃、
「小鹿野で使っている“町じゅうが役者”は、自分が考えたものだが、
いつのまにかポスターなんかに使っており、本職のコピーライターだったら大金を払ってもらわなくては?」
と小林先生がユーモアを交えて語られ、懐かしい思い出となっています。
数年前、町を訪れた上田県知事は町をあげて歌舞伎に取り組む様子を見て「彩の国だより」に
小鹿野町は「7人に1人が役者」と紹介されました。
かなり大げさな表現とお思いでしょうが、町の調査では昭和57年以降、
歌舞伎をやったことのある人は750人にのぼります。
まぁ家族をいれれば「7人に1人」もオーバーではないのではありませんか。
(東西)
*文中の写真は、埼玉県立 歴史と民俗の博物館ブログ(http://www.saitama-rekimin.spec.ed.jp/?page_id=568)より引用させていただきました。