写真は2代目坂東音十郎
秩父歌舞伎の創始者は、下吉田村井上(秩父市)の初代坂東彦五郎(?~1834)で江戸時代後期の文化・文政期に活躍しました。この彦五郎のことは詳しく伝わっていませんが、幼少より芸に秀でていたため周囲の人の支援もあり、江戸の歌舞伎役者に入門し修業を積んだといいます。帰郷して若い衆に芝居を教えたことを発端に秩父地域の歌舞伎が始まりました。彦五郎のもたらした江戸の文化は弟子たちによって、瞬く間に秩父じゅうに広まりました。その芸風を伝える話には「彦五郎の後面(うしろめん)」といって、顔の後に面をつけての踊りが得意で、それを見ていると体の前後の錯覚をおこすほど芸が達者であったといいます。
-二人の彦五郎-
彦五郎の名は上吉田(秩父市)、両神・三田川(小鹿野町)方面につながり、「喜(き)熨斗屋(のしや)」の屋号を持つ坂東彦五郎は現在十二代喜熨斗屋坂東彦五郎(平成19年襲名・秩父歌舞伎正和会猪野直文芸術監督)まで受け継がれています。
一方、初代坂東彦五郎の門弟の一人、三島の根岸勇三郎(1803~1867)は初代音羽屋彦五郎を名乗り、各地より役者を集め「勇(ゆう)佐座(さざ)」を組織して興行を始め、小鹿野歌舞伎隆盛の基礎を作りました。
大正の頃 愛宕神社のお祭りにて 「本朝廿四孝」
初代音羽屋彦五郎は、慶応3年(1867)11月5日に63歳で没し、大勢の弟子たちによってこの碑が建てられました。碑の正面には戒名「躍叟勇傳(やくそうゆうでん)居士(こじ)」、側面には辞世(じせい)の句「おくらるる足どり揃う霜の道」、台石には58人の寄進者、門弟の名が刻まれています。
その中には「飯田 坂東彦五郎」の名があり、六代喜熨斗屋坂東彦五郎(猪野金三郎・慶応3年没)か七代喜熨斗屋坂東彦五郎(浅井宇市・大正5年没)であると思われます。
したがって当地域には「音羽屋坂東彦五郎」と「喜熨斗屋坂東彦五郎」の二人の彦五郎が同時に活動していたことがわかります。
-大和座の時代-
音羽屋坂東彦五郎の名は長若村天王(てんのう)の三枝巳之(みえだみの)吉(きち)(1832~1883)が二代目を継ぎ、その孫にあたる三枝増蔵(1875~1955)が明治32年に24歳で三代目を襲名しています。
二代目音羽屋彦五郎は自宅の地名から名づけた「天(てん)王座(のうざ)」を組織し、秩父郡内各地で興行を行っていました。
右:坂東三津蔵、左:坂東彦五郎
二代目は「天ミノ」と呼ばれ初代と仲たがいして別れましたが、師匠の死後その後を受けて「天王の子供芝居」を始めたともいわれています。二代目は明治16年、51歳で没し、天王座は一座の坂東秀舎、坂東大和によって引き継がれ、再組織されたのが「大和座(やまとざ)」です。座名は坂東大和の屋号大和屋に由来します。
大和座には坂東秀舎、同大和をはじめ坂東花之助、同琴寿、初代坂東音十郎、坂東増蔵、中村時昇、中村十九十郎、助高屋東蔵、坂東三津蔵、同三十郎、同大五郎ら名優が名を連ね、35人から40人にも及ぶ大所帯となりました。「大和座」は昭和初年まで約50年間続きました。
この「大和座」と野上(長瀞町)に組織された「和泉座(いずみざ)」が秩父地域の歌舞伎最盛期を形作りました。
三峰神社にて 坂東九十九郎 「仮名手本忠臣蔵」
三代目の襲名披露興行は明治32年8月、「仮名手本忠臣蔵」12幕を通しで上演し、二代目の追善を兼ねて盛大に行われました。天王の自宅前の畑に間口は8間、奥行3間半、回り舞台も備えた大舞台のある小屋を建て、3日間お祭りをしのぐ盛況を極めたといいます。三代目は大正5年、大和座の座元を坂東大和から継承しました。
昭和初期 鎌倉三代記
「大和座」には大正5年3月から大正8年8月までの興行記録が残っていますが、
大正6年に32か所で73日間、大正7年には27か所で71日間の興行を行っていました。
秩父郡内はもとより比企郡、群馬県勢多郡、多野郡、利根郡、新潟県柿崎(上越市)など遠方の村々まで旅興行を行っていました。
しかし、看板役者の物故などから大正時代末には衰退し、昭和初年まで細々と命脈を保っていました。三代目音羽屋坂東彦五郎は昭和24年引退、昭和30年80歳で没しました。
昭和20年代の小鹿野町商店街(原町付近)
-一座芝居の変遷-
これらの一座芝居は映画の流行などにより衰退し、「高砂座」「秩父座」「梅(ばい)松座(しょうざ)」などに受け継がれましたが長くは続きませんでした。昭和40年5月には小鹿野町内各地の地芝居の師匠をつとめ、大和座の流れに属す数人の人によって「新大和座」が結成されました。しかし、高度経済成長期を迎え、社会情勢が大きく変化した昭和40年代には秩父地域の歌舞伎の伝統も途絶えようとしていました。衣裳や道具類も老朽化し見物する人も減り、風前の灯という状態でした。
昭和39年 祭り風景
孫をおんぶして歌舞伎の見物
-小鹿野歌舞伎保存会の結成-
この消滅の危機に対応するため、小鹿野町では歌舞伎を価値の高い文化財として保護育成する事業に取り組み始めました。昭和46年11月3日には芸能を広く公開し、芸能保持者に発表の機会を設け。住民全体で愛護するため「郷土芸能大会」を町民体育館で開催しました。この大会は「郷土芸能祭」「歌舞伎・郷土芸能祭」に受け継がれ、本年は第47回を迎えることができました。
「郷土芸能大会」には「新大和座」の役者たちと町内から「十六」「津谷木」「上飯田」などの地芝居が参加し、成功を収めました。
このころ県教育委員会から昭和48年11月20日に埼玉会館で開催する「埼玉県芸術祭郷土芸能大会」に小鹿野歌舞伎を上演するよう依頼があり、民俗文化財保護を目的とする組織づくりの機運が熟してきました。
そこで町教育委員会の指導・助言を得て、「歌舞伎の保護・保存及びその継承をはかり、地域文化の高揚に資すること」を目的に「小鹿野歌舞伎保存会」が昭和48年11月3日に結成されました。
保存会には「新大和座」の役者たちと町内各地で地芝居を行ってきた人々が合同し100人を超える会員でスタートしました。
昭和50年3月には埼玉県指定無形文化財の保持団体(昭和52年に無形民俗文化財に指定変更)として文化財の指定を受けることができました。以来、後継者養成や全国各地の地芝居団体との交流、各種講習会の開催などを行ってきました。現在では埼玉県を代表する民俗芸能として「歌舞伎・郷土芸能祭」や町の歌舞伎のまちづくり事業の主役として活動を続けています。
(上記の文章は、第47回小鹿野町郷土芸能祭パンフレットより引用させていただきました。)
こちらは、秩父地域における常設の歌舞伎舞台の資料です。
ほぼすべてと言ってよいほど、神社の境内に設置されていることがわかります。
坂東彦五郎を始めとする歌舞伎の歴史は、地元の祭りと一体となって、心のよりどころとなっていきました。
秩父地域の常設舞台
秩父地域の歌舞伎舞台 | ||
『埼玉の地芝居』(昭和56年埼玉県教育委員会編・刊)から | ||
№ | 所在地 | 神社名等 |
1 | 皆野町大字国神 | 国神神社境内 |
2 | 皆野町大字上三沢 | 八幡神社境内 |
3 | 秩父市吉田太田部 | 十八番神社境内 |
4 | 秩父市下吉田関 | 浅間神社境内 |
5 | 秩父市下吉田本町 | 二十三夜堂境内 |
6 | 小鹿野町両神薄塩沢 | 宇賀神社境内 |
7 | 小鹿野町両神薄御霊 | 御霊神社境内 |
8 | 小鹿野町両神小森 | 諏訪神社境内 |
9 | 小鹿野町両神薄竹平 | 諏訪神社境内 |
10 | 小鹿野町藤倉 | 倉尾神社境内 |
11 | 小鹿野町河原沢 | 竜頭神社境内 *現存せず |
12 | 小鹿野町三山間明平 | 古鷹神社境内 |
13 | 小鹿野町三山小金沢 | 八坂神社境内 |
14 | 小鹿野町下小鹿野津谷木 | 木魂神社境内 |
15 | 小鹿野町般若 | 日本武神社境内 |
16 | 小鹿野町長留 | 羽黒神社(宗吾神社)境内 |
17 | 秩父市上影森 | 諏訪神社境内 |
18 | 秩父市栃谷 | 八坂神社境内 |
19 | 秩父市寺尾萩平 | 諏訪神社境内 |
20 | 秩父市大野原宮崎 | 公会堂 |
21 | 秩父市荒川上田野栃窪 | 若御子神社境内 |